日本国の農業、それは日本国民の命を数百年、数万年繋いできた食糧の安全保障問題でもある、

もちろん、その他の馬や牛、鶏、魚も食料としての価値はあるが、主食の問題は米や麦である。

明治、大正、昭和時代の日本の食糧事情と農業の情報は、至る所で触れる事ができるが、

私が知っている、経験してきた農業は、生まれ育った宮崎県の昭和26年頃からの記憶と経験による、

戦前の地主の名残を残す実家で育った15年、

敗戦後の荒廃した人々の暮らしの中で、祖母を加えた11人家族の生活は、

過去の小作人の家族がコメを持ってきたり、戦時中に私の家に疎開してきた、

沖縄の家族がお礼に来たり、傷痍軍人が玄関口に立って物乞いをしたり、

見るからに見すぼらしい#乞食(当時はかんじんと呼んだ)が物乞いに来たり、

あるときは、国鉄職員だった濵田家の養子である父親が、酒を飲んで荒れて母と浜に逃げたり、

子供心にも、何が何だか理解できないあわただしい雰囲気の時代もあったのである、

時が過ぎるにつれて、

私も小学3年生ともなると、当時、肺結核で国立療養所に入院していた父が家に帰り、

そのころの1年か2年間は、

父の闘病生活を見ながら、父の命令で動く家族の動きを見ながら、

私自身も、町の薬局にペニシリンを買いに走り、

父の枕もとで、宗教の経典を読まされ、般若心経を読まされ、

昭和29年の6月、庭の大きな琵琶の木に沢山の黄色い実が熟れるころ、

父は旅立った。

死んだ人間の顔に触れたのは、後にも先にもこの時だけだったが、

次男が、交通事故で26歳で死んでしまった、悲しい記憶に、

なにもかもが、しばらく頭の中から消え去っていたのである。

・・・・・

それから、昭和29年に大黒柱を失った濵田家は、残された10人の家族で、

助け合いながら生きてきた事は言うまでも無いのだが、

あの時代50歳60歳ともなれば、ほとんどの老人は腰を曲げて歩いていた、

現代の50代、60代は、まだ若者とは呼べないまでも、溌溂とした姿は信じられない程の変化である。

そう言う訳で、私の小学校時代は、

田んぼを手伝い、畑を手伝い、山を手伝い、タケノコ堀を手伝い、

お盆前には、山から孟宗竹を切り出し、村の人々の墓前の花筒つくりを手伝い、

お盆ともなれば、家々では戸口で松明を焚いて先祖の霊を迎える・・それも子供たちの役目だった、

昭和32年、小学校を卒業する頃には、母親と共に家族の食糧を支えるための農作業や、

1年分の焚き木を山から切り出して、リヤカーで家まで運ぶ仕事に明け暮れたのだった、

近くの叔母が嫁いだ牧野家では、子供がいなかったので、私が良く出入りして、

調理師の資格を持っていると言うおばさんの手料理をご馳走になったり、

隣町に野菜や闇酒を売りに行くリヤカーを押すためについて行って、小遣い稼ぎもできたのだった、

あのころから、叔母さんの畑手伝いに行くと、

これは家で食べる野菜、これは農協の市場に出す野菜と、区分けしていたことを思い出す、

それは、農薬を使って病害虫を防除していると言う意味で、

綺麗な野菜でないと売れない・・農薬は体に危険・・・

・・・・・私の叔母さん(母の妹)は偉かったのである、

日本人の主食である、米の配給制度塩の専売制度、を知る人は、今では少ないだろう、

私の家では、20石ほどのお米を蓄える、鎌田式保存庫が土間に座っていて、

浜では、2mほどの大釜が何個か据え付けられ、

塩を製造する権利も有していたらしいが、祖父が興味を持たず、

数年だけ、塩水を汲み窯を焚いて塩を作っていた痕跡を、子供心に覚えている、

そんな訳で、私の子供時代は、

他の子供たちとは、いろいろと違った事を経験しながら育ったのである。

・・・・・

私の記憶の中の子供時代、昭和23年頃から昭和30年頃、

地域ごとに盛大だった盆踊り・・・

盆踊りの頃のアイスキャンデー、正月のあんこ餅や、囲炉裏でふくらむ焼きもち、

学校の友達の家での、ヤマモモちぎり、桑の実ちぎり、においの良い梅の実ちぎり、

畑のナスやキュウリの丸かじり、サツマイモの丸かじり、楽しくも嬉しい思い出である。

・・・・・

振り返れば、

宮崎の故郷で15年、大阪で15年、ふたたび宮崎で15年、

そしてまた、大阪暮らしで現在に至っている・・・

❖ 日本の農協は何をしてきたのであろうか?

私もいくつかの農地を所有していたので、農地を担保にして300万円の借金をした事もあった、

農地を担保に銀行から、1000万円の借金をした事もあった、

全て事業の運転資金であったが、これまでにおおかた20億円を稼いだのであるが、

今では、借金も無く、貯金も無い、10年程度の厚生年金と国民年金の貧しい暮らしである、

決して、人生の成功者とは言えない情けない現在の自分ではあるが、

鉄筋コンクリートの3LDKのマンション暮らしをしながら、

山手の50坪ほどの畑を借りて、

農薬無しの野菜をふんだんに食べる毎日の暮らしに、自分なりに満足している、

それでも、最近耳にするニュース、パソコンで見聞きするニュース、

日本国民の安全の脆弱性は、まさに危機的な状況であると言わざるを得ない、

#食糧問題に限って言うならば、

農林水産省、農協、経済連の悪行と国賊とも言える施策は、あまりにもひどいと感じている、

農協関係者には、私の同級生、友人、親族もいるので、面と向かっては言えないのだが、

農協の悪行ざんまい、日本国の農業を食い物にして太ってきた実態は、ひどいものがある、

おそらく、ほとんどの日本人は、

自分の食べる問題だけで、国民全体の食べ物の事を考える事など無いのだろう、

それはそれで仕方のない事ではあるのだが、

食糧の問題で、日本人が、日本国民が全滅するとなれば、考えなければならないのでは無いのか?

この記事を読んだなら、

貴方はこれから、

自分の口に入れるものを、一つ一つ、しっかりと吟味したほうが良いだろう、

お金にさえなれば、人が死のうが、どうなろうが、知った事ではない人間たち、

そんな人間や、そんな団体に取り囲まれて、生きなければならない、

戦時中の人間の人生を歩いているのだと言う認識を持たなければ、

今後の人生は、哀れで、悲しく、寂しい、そんな人生になるでしょう。

・・・・・

何時の時代でも、

先に生きてきた人生、先人の経験や情報は、自分の人生を大きく左右するのに、

祖父も祖母も語らず・・・そして子孫は聞く耳を持たず・・・

父も母も経験せず、経験しても語らず、そして子供たちは聞く耳を持たず・・・

そして、

アホと、馬鹿と、能無しだらけの世界となり、

アホと、馬鹿と、能無したちが、指導者となり、管理者となり、

アホと、馬鹿と、能無しに管理監督される人生を送る・・・

そんな人生を望む人間たちが増えてきているのであろうか?

白人社会のキリスト以上の、神の域まで登りつめた日本人の人生は何処にいったのか?

まあ~まあ~・・・ね!

まだまだ、神業を世界の人間たちに見せつけている日本人がいるのだから、

そんなに悲観する事もないのかも知れないが、

今日もまた、いつものように、

私的には、明日の夏野菜たちが、どうすれば心地よく育ってくれるのかを考え、

下準備をしっかり整えて、

明日も、暑い夏の日を畑で過ごしながら、野菜たちと語り合う・・・

そんな希望に満ちた明日が待っているのですよ。

・・・・・

それでは皆様も夏の太陽に負けないで頑張ってください・・・ね。

・・・・・

By Masanori Hamada

濵田政徳 1944年宮崎県生まれ  最終学歴:大阪市立都島第二工業高校電気科卒業 職業歴:1960年大阪市城東区共同印刷工業所(勤務・夜間高校通学) 1965年大阪市都島区大宝タクシー(有)勤務6年  1970年:宮崎県延岡市電気工事業(営業・設計)勤務10年  宮崎県日向市:プラモデル・駄菓子・子供の店ピノキオ(経営6年) 宮崎県日向市:電気器具販売業(都無線電機商事)12年(経営12年)   兵庫県川西市:電気工事業日向電設工業所 (経営15年) 大阪府高槻市:居酒屋ひゅうが (経営15年)其の他各種の事業を経営 大阪府高槻市:高槻交通(株)勤務16年(兼業) 1998年ネット通販・龍宮市場を展開(HP作成・FX取引・FX取次代理店) 2000年:MetaTrader4プログラム作成販売 2005年:日本トレードシステム研究所設立 2019年:頸椎狭窄解除手術  2020年:腰痛で入院治療  2021年:脳梗塞入院治療 2022年:腰椎狭窄解除手術 2023年:濵田政経システム研究所設立 

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